野菜畑からこんにちは・・・
(2005年9月、お客さんが畑見学に来られたときの話の記録)
1、どうして何も入れない栽培をするの?
私、ここをどういう栽培をしているかと詳しく説明は出来ないんですけども、もちろん農薬、化学肥料は使ってないんですね。あと、一般的に言う有機肥料も使ってないんですよ。米ぬか、油かす、牛糞、堆肥とかそういった物は全く使わないですね。土だけなんです。
以前は、そうではなかったんです。有機栽培を行っていました。それこそいろんな資材を活用しながら行っていましたが、次第に色んな個人のお客さんやお店の方から「無肥料の物ないですか?」という声が上がってきたんですね。不思議な事に…。
私、その時分からなかったんですよ。「えっ?どうして、何にもウソついていない無農薬の物なのに、どうしてそれじゃいけないの?」って思ったんです。するとお店の人や個人のお客さんがおっしゃるんですよ。「有機の物、堆肥を入れた物は、高い物もあれば安い物のあるけれど、欲しいと思えば結構買える時代になった。けれど、それが私のノドを通らなかったんですよ」と…。そういう風におっしゃる方が増えてきたんですね。
実は無農薬であっても体が受け付けない、どうしても反応してしまうという事が実際に起きているという事、それに私すごくショックを受けたんですね。「無農薬だけじゃだめなんだ」と、「本当の安全性というのはずっと違う所にあったんだ」と言う事をですね、それでまあ取り組み始めたんですけども・・・。
2、野菜たちは、私の写し鏡・・・虫のお知らせは?
全部写し鏡なんですよね、野菜達っていうのは、農家の者にとって…。
日々農作業していると、色んな事ありますよね。例えばここに大根があります。春に大根を作った時にですね、もうびっしり虫が付いてレース状になろうとしてた事があったんですね。ビックリしました。つい一週間前までは全然虫食いがない、ぴんぴんとして元気な姿だったんですけどね・・・。
アッと気づいたんですよ。何を気づいたと思いますか?実は5日間ほど他の作業が忙しくて大根畑に来てなかったんですよ。私が解釈したのは大根がわざと虫を呼んで気をひかせたんじゃないかって…。「お前、見てないからこんなになるんだぞ」って。私はそこをハッと、そういう風に捉えたんですね。
「申し訳なかった」と、「これから毎日来るからね」と・・・・。そしたらですね、その時についてた虫が翌日から全くいなくなるんですよ。よく「虫の知らせ」っていう風に言いますよね。まさしくその言葉というのは、実はそういう自然と共に太古から生きてきた人間の生き様、自然との共存共栄、そういった中から生まれてきた言葉なんじゃないかなって思いました。
本当に、面白い話があるんですよ。例えば、ピーマン畑があるんですね。トマト畑も他にあるんですけど。極端に生育が弱いところがあったりするんですね。どうしてここだけこんな小さいんだろう、こんなしょぼんとしているんだろうっていう時に、世の中にはたくさん面白い人がいまして、霊感の強いような方もいらっしゃるんですよね。その方に聞いたら、「何だか与嶋の体調がすごく最近低迷してないか?朝起きれないんじゃないか?」って・・・言われました。
あ、そうだ!実際にその頃は本当に朝起きれ無いほどに体調がおかしかったのでした。百姓で本当は朝早くから起きなければならないのに、朝起きれない、何だかだるい、体も心もどんどん沈んでいってた…。
本当かウソか、私は分からないですよ。でも事実はそうだったんですね。その方がおっしゃるには、「そのピーマンはあなたの写し鏡なんだ。あなたの事を全部受けてるんだよ」って…。特に野菜というのは、食べられる事が最高の喜びじゃないですか。人間に身を尽くす存在じゃないですか。逆に動物って言うのは切られて苦しみで、こう、人に捧げるじゃないですか。植物はもぎ取られて食べられる事で一生を全う出来るんですよね。
野菜は本来、自然の野の草々と全然違う別格の霊性を持つ物なんですね。そのものは人間に尽くす存在である以上、どんな事でも身代わりになってくれているんですよね。例えば、私がそんな状態にあるんだったら、野菜達が全部受けようとしてくれるんだ…という事を、その霊感が強い方が教えて下さって、そこで私が「そういう事もあるのか…」と受け止めました。そして、それから色々な日々の生活スタイルや、食生活を、バランスよく、リズム正しくしようという風に心がけて、一週間、二週間と経って段々体調が戻ってきました。そうしたら、ピーマンが段々成長しはじめて、平均化してくるんですよ。その時に改めて分かりました。「あっ、ウソじゃなかったんだ。そういう事ってあるんだな」。気づかされたんですね。
「虫の知らせ」について、もう一つだけ今年あった話を紹介させて頂きたいと思います。稲に、この地方ではイネミズゾウムシというのがいます。田植えをした直後からかかってくる害虫なんですが、一般的には厄介者なんですけれども、無農薬をやるにおいて一番のネックは害虫(ゾウムシ)と雑草なんですよね。ゾウムシがいて雑草が生えて、今年はもう本当に大変だなと思ったんです。ゾウムシが明らかに稲を食べてるんですよね。「うわ、これはどうする事も出来ないからどうしよう、雑草も取りきれないからどうしよう、もうお手上げだ…」という状態だったんですね。
その時、これまた農業に全然関係ない人から聞いたんですけれども、私が「ゾウムシってなんですかね?本当に悪者で困ってるんですよ」と聞いたら、その方は自然や虫について色んな事を研究していらっしゃる人だったんですが、その方から教えて頂いたのが、「実はゾウムシというのは害虫じゃないんだ」と言うんですよ。「かつては稲と共存共栄の関係にあって、稲を助けていた尊い虫だったんだよ。どうして最近害虫になったんだろうね」って、その人も首かしげてたんですね。
私はチンプンカンプンなんですよ。見るからに稲を害しているのに、何が共存共栄かと!そんなきれい事を言うもんじゃないんじゃないか!って、農家の苦労分かるか!とケンカになりそうなほどだったんですね。そして、草は生えるわ、ゾウムシは傍らで稲を食うわ、稲が弱りそうだわ、困ったな…と疲れ果てた時に、ある日突然、それまで稲についていたゾウムシが、足元の草々に一斉につき始め、草を食べ始めたんですよ。そしたら稲がどんどん元気になって、草はどんどん弱くなっていくんですよね。
私は、ある時からゾウムシを害虫だと思わなくなったんですよね。稲につかないから益虫なんです。害虫どころか雑草を食べてくれるから、本当に共存共栄なんです。ある一定の時までは稲は我が身を削ってまでゾウムシを育てて、繁殖させて、そしたらゾウムシはその恩返しでコロッと周りの草々を食べ始めて、稲を大きく育てる助っ人になってきた。すごいな!
自分が害虫だと思っていたのが実は益虫だったんだって・・・。そしたら本当に楽になってきたんですね、害虫として心配する事ない、雑草を心配する事ない、もう楽になった、お米の事での心配なくなったんですよね。
何が変わったかというと、私の心が変わっただけなんですよ。今年初めてそういう事がありました。皆さんの中にもそういう経験をされている方もいらっしゃると思うんですけれど…。去年まではですね、本当にゾウムシの被害にあってもう全然お米が取れない、そういう状況なのに今年はゾウムシが変わってくれた。それは私が「ゾウムシは実は益虫で、稲と共存共栄の関係にあるんだ」という事を、疲れ果てた時にストンと理解したからなんですね。理解したからゾウムシが答えてくれたんですよね。そういう風に私は理解したんですけれども…。
実はこの世の中って全部楽なんですよね、心が変わるだけで…。心が変わらなければこの世はもう悪循環ですよね。そうなんじゃないかと…。結局人間関係も世の中もそうじゃないですか。「お前悪者だ」と言われると「なにくそ!」と思うじゃないですか。ゾウムシもこの野菜達についている虫達も、例えばこういう山の所に来ますと、イノシシとかキツネとかタヌキとか色々来るんですよね。そういうものすらも食べてる時は実は、最高の喜びで来てるはずなんですよね。何の罪悪感もないんですよ。そこに「お前、害虫!」って言われたら反感持ちますよね。人間だってそうじゃないですか。やられたからやりかえすというもので。その存在を認めてあげるだけなんですよね。必要があって居る、その意味をくみ取るという、それが「虫の知らせ」を如何にくみ取るかという事なんじゃないかと、そう思います。
私は最近、特に今年になってから、今まで持っていた知識とか経験とか、そんなものは全部放り投げようって思うようになってしまいました。
3、愛情のかけすぎ?
私は、本当無謀なところありまして、欲深いって言うかですね、ここの土地というのは開墾地で黒っぽい土じゃなく、赤土なんですよね。開墾して 8年目くらいなんですけど、初めの3年くらいは草 1本生えなかったんですよ。そこにいきなり「自然だ!」という事で、汚染されていない土だという事で、いろんなものを何でも作っちゃったんですよね。トマトでもナスでもキュウリでも何でも出来るんじゃないかと思ってしまったのです。
それが、ことごとく何も出来ないんですよ、もう全く予想に反して…。きれいな土だったら何でも出来ちゃうんじゃないかと思ったのですが、実はそうじゃないという事がやっと分かったんですよ。そこで大豆を植えるようになりました。私は、本当に無謀で、そういうことで失敗ばっかりで…、結局土を見てなかったなって、相手を見てなかったなという反省しました。
そしてまた、最近また気づいたのが、私は、(作物に)愛情かけすぎだって気づいたんですね。これ本当に気づいたんですよ、これまた。
というのは私、理想が高すぎちゃって、「この世を変えていく自然栽培ならば、大根なら、これでもか!というくらいの良い物が取れて当然だ!」という理想が高いんですね。もう目指すものが…。実はそれが、野菜畑に来ると、「おう、頑張れ、頑張れ!」っていう感じになるんです。
そこであるとき、ふと気づいたのが「これって、野菜たちにすごくプレッシャーじゃないか?」って思ったんですよ、野菜が…。これは私の家内(妻)が教えてくれたんですけど、病気になっているトマトを目の前にして、もう私がこう肩の力を落として悩み込んでいるその姿を見て、私の事を「そうなるからいいんのよ。出来なくて当たり前だと思ってればいいのよ。十分野菜達はがんばってるんだから、もういいじゃないか」って教えてくれたんですよ。
それまで私は「もっと頑張れ!もっと頑張れ!もっと元気になれ!病気なんかどっか行っちゃえ!」とか、力入りすぎてたんですよ。これ、人間で例えて言うと医者の子供みたいなものじゃないですか。医者が全部そういう風というわけじゃないですけど、例えば大金持ちの家とか、子供に英才教育をさせるじゃないですか。もうなんでもお金かけても、どんどんプレッシャーですよね。「お前は将来こうなって、こういう風に出世して医者なって…」そういう子供ほどグレるじゃないですか。もう、そのプレッシャーで「勉強やりたくない!もう、ほっといて!」…。
それよりは、「お前は生まれてきただけで嬉しい、本当に良いんだ。お前の自由にしなさい。出来るフォローはするけども、あとはおまえの選ぶ道だ」って言われた方が、すごく嬉しいじゃないですか。皆さん、今まで育って来た事思っても…。まさしく家内が教えてくれたのはそれだなと…。愛情のかけ過ぎって言うか、愛情、愛情でも内容が違えばそれはプレッシャーとなって害となってしまうんだっていう…。
私は、最近、畑に来てもあんまり熱入れないって言うか、必要な事はして、必要な声もかけますし、声かけると言っても内容色々ありますよね。声かけるのが良いと言えば只単純に言えば「頑張れ!もっと育て!」と言う事も「声」じゃないですか。私はそんな事だけじゃなくて「有難う」だけでいいと思ったんですよね。植物の世界は不思議ですよね、この土に種を蒔けば必ず芽が出て、育ってくれる。(私は)何にも出来ない、だから「有難う」なんですよね。そして、植物はほめられる事がすごく嬉しいみたいで…。例えば言葉のかけ方で、病気になって、もう瀕死の状態だっていう、あるじゃないですか家庭菜園されていても、実はならなくなってきた、虫がたくさんたかってきた…けど、そこで「頑張れ! 頑張れ!頼むから頑張れ!」って言うんじゃなくて、例えばその野菜の先端の新芽が青々として、そこだけ虫に侵されていない、病気になっていない、その姿を見て「ああ、すごいね!すごい力あるね!周りが全部病気でも、ここだけすごい力じゃないか!」って。そういうのが本当の声かけじゃないかなって…。心の切り替えはやっぱりそういう所って大切なんじゃないかっていう事を思いますね。

