「また会えたね、」という感覚
今年もまた、野菜作りがはじまります。よしま農園では、野菜の種を「自家採種」と言って、畑で育った野菜が花をつけ、実をつけて、それが熟したようなものから、次世代の種をとることを心がけています。全部の種類の野菜をそうすることはできないのですが、できるだけそのようなことを行っています。一般的には市販の種を毎回買って使うのが普通です。
野菜は数ミリの小さな種から、土と、水と空気、適度な温度と光があれば、不思議なことに芽を出し始めます。この色々な要素のいずれのバランスを欠いてもうまく発芽せず、成長してきません。植物の誕生の偉大さを強く感じます。
さて、大地に生まれた、その尊い作物たちは大きく大きくなり、葉を茂らせ花を咲かせ、そして実をつけます。私たちに沢山の楽しみと、十分な食物を与えてくれます。しかし、時がくればどの作物もお役目を終え、次第に葉を落として枯れ始めます。秋は、収穫を終え、緑一面だった畑も、すっかり元のように土だけの姿になります。そのときは少しの名残惜しさも感じます。
そのときに植物が残すのは、また生まれる前にフィードバックしたモノ(小さな種)です。植物は命を終える瞬間までに、また命の出発点にまでもどした形を残していきます。命は終わらず、形が変わるだけということでしょうか。
このようにして、植物はずっと、長い年月、数万年、数億年と、命を続けてきたのでしょう。
そして春になり、私はまた、種を播きます。その種が芽吹くとき、その出会う命は、まさしく前年私に雄大な姿で育ってくれたその野菜そのものの命の延長です。改めて小さく再スタートしたその姿を見る瞬間、「また、会えたね。ありがとう」という気持ちがわいてきます。毎年種を買ってるなら、それは「はじめまして。これからよろしくね」になります。
作物は、種→小さな芽(赤ちゃん)→立派な姿(成人)→収穫(お礼)→種→小さな芽・・・→、というようにこの繰り返しで命が続いています。これは全てひとつながりの命で、決して途絶えることの無い姿です。輪廻(りんね)という言葉がありますが、人もまたきっと、同じことが起こりえているのだろうと思わされます。つまりは、命は途絶えることなくまたよみがえる、そしてまた出会う。
人の場合は自らが、魂という種をずっと廻らせていんだろう。きっと大切なのは、その人生のなかで次の転生(輪廻転生)に向けて、いかに成長した種(魂)を自ら残していくかということなのかもしれないなぁ~。
(2006.2)

